2016年12月25日日曜日

豊かさ


 

中国で格言というか警句と言うか面白いことを言っています。「1分間幸せでいたければ飴でもなめればいい。1時間幸せでいたければお酒を飲めばいい。1か月幸せでいたければ何か高いものを買えばよい。一年幸せでいたければ家を建てるといい」

この話と、米国のコロンビア大学の研究報告「年収5百万円までの人は、お金が幸せの要因で、それを超えるとお金と幸せとは相関関係にない」と言う研究報告は結びつきます。家を建てるまでは買い物だからです。

安定した生活や家屋を手に入れるまでは、ひとびとはお金が必要です。だから、そういう政策が求められます。しかし、この中国の話の結びは「一生幸せでいたければ魚釣りを覚えなさい」といいます。

何か夢中になっておこなうこと、死ぬまで勉強ですと言えるようなことは、人生の楽しみだけでなく、複雑怪奇な人生の道筋のために必要です。それには一つだけ条件があるのだと思います。自然と関わることです。自然と関わる何か夢中になることがある、それが幸せの条件だと言っているのでしょう。年収5・6百万を超えた豊かな人は、豊かそのものが当たり前となり、やはり夢中になれることが、お金とは関係なく必要なのでしょう。

 

もう一つ、ハーバード大学の70年継続した研究発表です。

「何が幸福の条件か?」を探るために、ハーバード大学の学生700人を日々の生活にまで入り込みチェックしたものです。その中にはひとり大統領になったひともいたそうです。

教授は4代に渡ったそうですが、その現在の教授が「富と名誉にあこがれて入学してきた学生が、今では60人ほど存命で、やっと答えが出せるようになりました」

「幸せは量ではなく質のある人間関係が築けるかどうかにかかっています」「仕事でもなく、富も名声でもなく友人や家族に親密な人がいるかどうかです」と答えています。友との楽しい語らいがあれば健康にもいいとも述べています。これは、誰でも納得できる、ごく当たり前すぎる答えだが、70年の歳月と700人以上の人々の調査からわかった、純然たる研究報告です。

これらからわかるように、豊かさは希望であっても、実質の幸せには結びつきません。例えば、大会社の社長が、重病で入院すると大勢の見舞客が来るでしょう。中には親密な人もいるだろうが、その人達は、政治経済がらみで付き合っている人たちです。片や、2,3の友人を持つあばら家住まいの者がベッドで横になっているところ、「どうしたんや、だいじょうぶか?」と声をかけてくれる。ずいぶん違うと思います。

 

豊かさの中でも、人は孤独を感じます。虚無を感じる人もいます。それを感じないために、何か夢中になってやることが必要なのだと思います。

また、映画を毎日見ていると、どこの国でも家族関係に物語の発端があります。日本では、戦後始まった母娘の格闘、昔からある父の権威に抵抗する息子たち、男性では母子癒着、アメリカのミソジニー(女性嫌悪)に近い恐妻家、豊かであっても平等にあたえられた苦悩です。今はそれに貧困の問題も現れている。現実の問題は複雑怪奇で解決の糸口さえ見つからないようです。

内田樹は、他人とうまく付き合うには「問題を発見しない、問題を解決しようとしない」と言います。そのままを認める肯定するということでしょうか。これは、仏教徒の生き方を彷彿します。色即是空を現代語訳したようです。こうありたいと思っても困難なことです。どうしても、僕はこうしたいが、でてくる。養老孟司は、夫婦でものを投げるけんかをしたと言いますが、相手を変えるのでなく自分が変わればいいといいます。これも簡単にできることではありません。それでも、安心な生活のために努力する。これらの言葉を修行する価値はあります。

 

その上、先ほど書いた虚無が豊かさの中から現れてきます。その原因を僕なりに考えた推論があります。

飲む打つ買うに蕩尽する金持ちはたくさんいます。裕福になると快楽が人生の意味となるのでしょう。これは、虚無感を取り除こうと必死になっている姿ともとれます。無我夢中に生きていると、虚無感は感じなくて済みますが、孤独になると虚しくなる。

小津安二郎の名作「東京物語」は、世界の監督数百人のアンケートの中、トップ投票されました。田舎から都会に出て就職した子供たちが、自分の生活に目いっぱいで両親が上京しても親切に対応しない。見ている観客は、一部感情移入できても、最後には突き放されて、この映画はどういう映画なのだろうと宙ずりになります。映画は普遍的な人生の孤独、虚無を表しています。そこのところに、映画のプロは感じ入ったのでしょう。

その虚無感はどこから出てくるのか、僕なりの答えです。

それは、人類の原初の姿、さらに、細胞が出来る時にまでさかのぼります。

すべての物体は電気的にできています。原子で構成されているからです。原子を作る膜のまわりにはマイナスの電子が回っており、中にはプラスの陽子と電気を帯びない中性子が入っています。プラスとマイナスが調和した原子の集まりがすべての物体を作っています。電子と陽子は無限と思われる時間生き続けますが、中性子は15分で分解され、クオークとニュートリノに分かれます。ニュートリノは、1秒間に数兆個人体を通過しているそうです。

ビックバン以降、宇宙にはクオークとニュートリノと電子、陽子が自由に飛び回っていた。それらが、原子となり物質となる。

地球が冷やされ海に水が満たされたとき、海面に落ちた隕石から細胞のもととなるアミノ酸が生成され、アミノ酸が充満すると、海底の活火山から噴き出す熱水によって、原初の単細胞が生まれたと言われています。

その単細胞の膜ができたことによって、宇宙から隔離され自由に飛び回ることができない電子陽子たちのうめき声が聞こえる。宇宙にはもう帰ることができない。ゆえの虚無ではないだろうかと僕は考えています。腐って分解されてやっと帰れる。生きているうちは閉じ込められている。当然生の願望はありますが、死の願望もあると言われるゆえんです。

この仮説の最もヒントになったのは、日本最初期の物語「かぐや姫」です。豊かな生活を保障する裕福な帝たちの求婚にも関わらず月に帰る。宇宙からやってきて宇宙に帰る物語です。この時期に、どうしてこういう物語が書かれたかはわかりませんが、人間の無意識の記憶がただならぬことだけは現代科学が様々に証明しています。

電気的に生成されている人類も、すべての行きとし生きるものも、また、石や水にも、原子が元であるゆえ電気は流れています。昨年の東大の研究では、その電気が外周にごく微量の膜を作っているという発見がありました。すべての物体には、その準静電界と呼ばれる個性的に作られた膜があるそうです。犬が、見えない主人を感知して、玄関で待っているのは、主人の個別的準静電界を感じているからだそうです。人に気配を感じる力があるのもその膜を感じているのです。うっそうとした森に畏怖感があるのもそのためでしょう。木や石が神の憑代と感じるのも、治療家が手当で直すのも、電気的な事象に違いない。そう思います。

動物には、それを強く感じる機関が残っている種類がいます。サメやエイやカモノハシがそうです。人間では、原始的な機関として残存している耳の中蝸牛の有毛細胞が、体の中では電圧が一番高く、ここで音と同時に感じているのだと研究報国にあります。産毛や髪の毛も、怒髪天を衝くとか総毛立つとかも、そういう現象なんでしょう。

雷が起るように、宇宙も電気に満ちています。準静電界も宇宙の電界とつながっていないわけがありません。植芝良平の合気道では、宇宙に満ちた気を取り入れる修行をします。北大の数学の教授が、数学の真理と同じように、心が宇宙にあり、それを一人ひとりが自分に取り入れる。なんとも不可思議な研究もあります。僕は、それらから人間の魂は脳にあるのではなく、体を取り巻くその膜にあるのではないかと思っています。

 

宮沢賢治が「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」

「無意識部から溢れるものでなければ多く無力か詐欺である」

「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」

「われらに要るものは銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱である」宮沢賢治は虚無ととらえず、生きる力としての宇宙を感じています。

しかし、銀河鉄道のジョバンニの独り言に「こんな静かないいとこで、僕はどうしてもっと愉快になれないのだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう」とも言わせます。

 

人が生きていくには、宇宙や自然を身近に感じることが大切だと考えています。虚無感を一時感じても、生まれ故郷の宇宙や自然をないがしろにすることは、しあわせを放棄するようなものです。だが、現在の日本人はまるごと「きれいきれい病」にかかっていて、自然に触れる機会など考えることがない。子供の時から自然に親しむことは、教育の最も大事なことです。

宮沢賢治が、芸術を創造するには「無意識部から溢れるものでなければ多く無力か詐欺である」と先ほど書きました。小説家は、プロットの通り書いていても無力で、書き進めると筆が動くようになって、プロットなど関係なく書き進められるものの中に傑作が現れると言います。僕は、鬱を一年間味わいましたが、無性に、絵がかきたい、絵をかいてあの無心の法悦状態になりたいと、あこがれました。法悦とは、宇宙との邂逅、一体感、銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱と共にあるときです。

あなたにもあったのではないでしょうか。
幼いころ、虫取りや河原のグイノ実を取る川遊びにふけった頃が。
まあるい熱い石で満たされた河原に、バッタが飛び、ところどころの小藪にあるグイノミをほおばり、後で食べようとポケットに突っ込む。
速い流れの小川に入り、白く光った水中でアユや小魚と泳ぐ。唇が紫色になって冷たくなると、太陽に照らされ熱くなった大きな石の表面に寝そべって、からだや顔をひっつける。
見ると、石の表面の黒く濡れた後が、みるみる消えていく。そのまま仰向きになり背中を温め空を見上げると、ギラギラ輝いた太陽と一面真っ青な空。
山の上からもりあがってきた真っ白な入道雲、パンツだけはいて大急ぎで走り始めると、パラパラと水滴が当たる。
もう駄目だ、家までには土砂降りだとあきらめたとき、ふっと心が晴れる。
頭からびしょ濡れでも、なぜか笑みが漏れる。
こんなにいい気持、前も見えないほどの雨の中、生きているとはこういうことかと思うほどの感動。
今宇宙が祝福してくれている生の充実感。生きてきて良かったと思える瞬間。
歴史家ヘロドトスが、少年時代は黄金に輝いていると言う時、僕はこの経験を思い出す。

 

最後にパステルナークの小説ドクトルジバコで主人公が「原野の空気」を吸い込む場面、

「父や母よりも懐かしく、

愛する人よりも素晴らしく、

書物よりも知的な空気--

それを吸うと、一瞬、ラーラは、存在の意味を掲示されるのだった。

私がここにいるのは、この地上の生の狂おしいばかりの魅力を解き明かし、

すべてのものにふさわしい名を与えるためなのだ」

 

宇宙。空気。それを吸うと存在の喜びと意味が提示される。

地上の生きとし生けるものの狂おしいばかりの魅力。

空、山なみ、木々、海、川、大地、咲き誇る草花。世界は美しい。

それらの存在の魅力を解き明かしたいという願望。

それらはすべて電気的につながっており、それぞれのコミュニケーションがあるだろう。強く保持する感じる力が必要だが、それとともに心の開放も必要だ。時には、意志の力を横に置いていても、感覚にこころひらくべきなのだろう。

もう一度宮沢賢治

「われらに要るものは銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱である」

「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方のかなたにちらばろう」

 

豊かさについて書いていくと、このところまで来てしまいました。

 

僕は今山住まいです。そこで和歌を一首

「天地(あめつち)も こころしてまつ さむぞらを それもまたよし やまごやのふゆ」 ちょっと、語るに落ちたかな。

2016年12月11日日曜日

花のことば(5)



 はなが3年生、ふみやが1年生、徐々にいっしょに散歩することも、会話する機会も少なくなっている。出来るだけ上目目線で話さないようにして、おじいちゃんバカでしょと言われるぐらいの位置でいようと心しているが、子供たちには普通になってきたのだろう。
 なめられでもしないと、子供たちは心を開いてくれない。だじゃれすることと、かまうことに、またーと知らんぷりする。一緒に生活している熊のような犬、のんだけが親密すぎる愛撫を求めてすりよる。
 1年生のふみやは、架空の敵と戦い続けているが、3年生のはなには、いったいどういう未来が待ち受けているのだろう。


 お山に来ると楽しいことがたくさんあるよと、はなたちをさそうと「おじいちゃん、幸運を想像していると、そうでないことが多いから、あんまり幸運を考えないほうがいいよ」と言う。なんということ。

 保育園の時、ピンクのB4の紙に音符を書き綴り、ゆめをおいかけて・・・・、さいごに、「あいのひとつぶ」とタイトルがある。
 音符も読めないのに、四分音符だとか、全音符を書きつけて、そう言えば、ピアノで、今日の気持ちだとか、お星さまの歌だとか、気持ちよさそうに弾いていたから、かの音符も、はなには想像した音が流れていたのかもしれない。
 3年生の初めには、作詞した曲を弾いて、先生に譜面に残してもらっていたので、おじいちゃんにも聞かせてとせがむと、今はクラシックの曲を作りたいのと言う。

 「サンタさんは自転車は大きすぎてプレゼントできないと思うよ」と、じいちゃん「それに、サンタさん自転車作れないだろうし、どこかから泥棒してもってくるわけ?」と問うと「サンタさんは、魔法使いの一種だから、プレゼントは分身させて持ってくるんだよ」「分身て?」と聞くと、「コピーして、瞬間移動させるんだよ」「じゃあ、煙突からプレゼント持って入ってくるわけではないの?」「昔はね」と答える。
 これは最強の考え方だと思う。お父さんが夜中、枕元にプレゼントを置いているところを見つけても、サンタさんが忙しいので、お父さんに魔法をかけたんだと考えるだろう。だから、サンタの存在の有無ではなくて、魔法使いは本当は、いないんだと思うまで、サンタさんは、無償の贈与を続けなければならない。何かをしてあげたり、助けたり、あげたりと大切な贈与の経験だからいつまで続いてもいいんだけどね。

 2年生の時「いいことはつづかないよ、わるいこともつづかないよ。いつもおんなじことがつづくとはかぎらないよ。いつもいろいろなことがおきる。それがまいにちなんだね!」とママとの交換日記に書いている。愛憎はなはだしい母娘の確執を見て、ママにそれを言いたかったのだろう。

 3年の春「おじいちゃん、夏休み奈良に連れて行って」と急に言う。奈良で何するのと問うと「お仏像を見て、鹿に会うの」と決めている。ばあちゃんが、ネットで旅館を検索して興福寺の近くの旅館に決め、車の中で「花ちゃん、どうして奈良に行きたくなったのと問うと「私、怒りんぼうだから、仏像の優しいお顔を見て、私もやさしくなりたいの」と言った。おじいちゃんは絶句するしかなかった。
 9時間かけて室生寺に着き、雨の中美しい5重の塔に出会い、ふみやもはなも真剣な面持ちで12神将の説明を聞いていた。
 長谷寺は階段の数がすごくて、入り口で杖をかりて這い登るように歩いたが、子供たちはすこぶる元気、お100度参りされているご夫婦を見、5メートルもある人々を救われるといわれる観音様にみんなで手を合わせた。こもりくの長谷寺と言われるが、真夏だと木々が華々しく色づきそんな感じがしなかった。
 はなは、京都は混雑しているけど奈良は静かだからいいの、と、確かに、一日目はうっそうとした森の中、観光客も少なく、いい一日だった。
 二日目は真夏日、東大寺をはじめに、境内を歩いて法華堂、正倉院、戒壇寺と回り、法華堂の日光、月光菩薩がミュージアムにあると言うので、東大寺山門前にたちより、春日神社近くのカレーやさんで昼食となった。
 法華堂の後、体中汗まみれとなり、目の前のカキ氷の看板に飛び込んだ。花ちゃんに宇治金時がいいよと教えても、大好きな抹茶のカキ氷だとは思わず、レモンを頼んで、食べ始めてじいちゃんが頼んだ宇治と交換する。宇治って抹茶だと知らなかったとはなの弁。
 春日神社では、「鹿島神社から白鹿に乗って神様がきたんだよ」と、はなの説明を受け、「一時は殺されかけた鹿が、大切にしようと決まって、だから、奈良にはシカがこんなにいるんだよ」という。
 参道にある石灯篭の下に鹿の彫り物をはなが見つけ出して、記念写真を撮った。その後、新薬師寺、興福寺、ばあちゃんも僕もグロッキー寸前、子供たちが鹿と遊んでいい?と聞くので、僕たちはベンチに座って休憩きゅけい。
 ついにこの旅行で法隆寺に行けなくなり、翌年また来ようねと、はなの机の前に貼っている「おぼんやすみは奈良りょこう」の張り紙は、はがさずそのままになっている。来年はママもこれるねと約束する。

 七夕の笹にかける願い事
 「自しんを持って世界でおどれるえいこくロイヤルバレエだんのプリンシパルになりたい」
 この子は、一歳になるかならない時、床に座った体制から、「うをー」と続けざまにうなり声をあげ、腰をうかせ、独り立ちした子だ。意志して立とうと一人決め、それを実行した。まだ赤ちゃんと言われる年頃で。
 部屋には幸里おじちゃんが神戸から来ていて、みんなでわいわい騒いでいた。その横で、一人立とうと決心して、オオカミのようなうなり声をあげ、一歳で一人実行した子だ。
 みな声に驚いて、唖然と見ていた。はなはいっぽ歩いてしりもちをついたが、その時のはなの顔がどうだったか思い出せない。自分でも驚いて泣き声をあげたか、じしんにあふれた顔だったかわからない。3年生の時そのこと覚えてると聞くと、「覚えてる。何回やってもうまくいかないので、こんちくしょーと思って立ったんだよ」と言った。
 週に4回バレエに通い「つけねがひっこんでいる」と先生に注意されて、基本の練習したいから練習日を増やしたいと週に5回の練習をすることになった。はなは意志を持って生まれてきたのだろう。

 「花のことば」は、書きつけるたびに、はなに見せていた。
 学校の送り迎えの車の中で渡すと、広げて読み始める。気が利かなくて習っていない漢字もはいっている。これどう読むのと聞かれるが、おじいちゃんも一緒にその紙の文字を読む。僕が書いた文章を僕が読むのだから僕のほうが早く読めて当たり前だけれど、僕が半分ほど読むと、はなはもう読み終わって次のページをめくりはじめる。みんな読んだのと聞くと、おもしろいからまた見せてねと言う。
 休み時間には、図書館の本を読んでいるようだが、おじいちゃん年間に100冊は本を読んでいるよというと、はなちゃんは365冊は読んでいると言う。速読できるのは、どんな頭の回転なんだろう。

 フミヤが32点のテストを、みんなには言わないでねとママに言ったそうだ。夕飯時、暴露されて、ばあちゃんに今日から漢字の練習しなさいと言われ、ママは、わかったのフミヤと念をおす。じいちゃんは、1年生だから、そんなにしなくていいよと、小学生は、子供のままでいいんだよと小声で言う。
 フミヤは、ばあちゃんの具合が悪いとき 「おばあちゃん大丈夫」と心配そうに言える子だ。ばあちゃんは、ふみやは優しい子だとほめていた。それだけで十分だ。それ以上の望むことはない、と、またまた小声で言うと、はなが聞きつけて「ふみやは、じょうずなんだよ」と言った。
 皆にしかられて、苦虫をかみつぶした顔をしていたふみやが、急にキッチンに行き、じいちゃんがいつも薬を飲むお水を汲んでおくれということを思い出したのか、氷入りのお水を汲んでくれた。皆どうしたのと怪訝な顔をしていると、はなが「おじいちゃんだけ、点数のこと言わなかったから、いれたんじゃないの」と、言った。
 ふみやは、おじいちゃんが「怒られてやんの」とかまうと、ぷんとして近寄り、ぼくのおなかに一撃をいれる。その時僕は、おなかを前に差し出して、殴られる準備をするのだ。まだ、それほどいたくない。そうすると、今度は、足蹴りをいれられる。いつまで我慢できるかなーとも思うが、ふみやはそれで気がすんで怒りがおさまる。

 2年の晩秋、いつものようにお山に泊まって、翌日クヌギの森の中の朝の散歩のとき、僕がへたくそ俳句を言うと、はなは「あかいろきいろ こうようながめる 秋の朝」と間髪入れず歌う。え!俳句習ったのと聞くと、「松尾芭蕉も習ったよ」という。それから、50音俳句ができるまで、2週間だった。
 「秋の歌」はそうして出来上がったが、3年生の今は、和歌を習っているらしく、空で歌い始めた。猿丸太夫は「おくやまに 紅葉ふみわけなく鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」おじいちゃん知ってると聞くが、僕は知らない。藤原敏行は「秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれめる」というんだよ。
 良寛はじいちゃん好きでしょと問うので、良寛なら知っているよというと「虫の音も のこりすくなくなりにけり よなよな風のさむくしなれば」知ってる?。知らない。万葉集を読み、良寛は大好きだから何冊も読んだが、和歌は、ぜんぜん覚えられない。何度も挑戦したが、僕には無理だった。
 だけど花ちゃん、この歌はじいちゃんの今の山の生活の歌だよ。さびしい夜、鹿は悲しそうにピーと泣いているし、風が急にごーと吹き、木がゆれて驚くことがある。良寛さんが歌うように、10月ぐらいだとだんだん虫の声が少なくなって、冷たい風が吹いてくる。この歌を味わうには、山に泊まりに来ないといけないねー。

最後にじいちゃんの句、
「あめつちも こころしてまつ 寒空を それもまたよし 山小家の朝」     

「ひとりねの むなしき落ち葉 のんがおり はながおり ふみやおる」










2016年12月10日土曜日

和をもって貴しとする

前回、家族間の関係性は、地域によって変化があると書きました。その後、いろいろ考えてみると、おもしろい接合が出来ましたので、書いてみます。

 養老孟司が、アメリカは日本から比べれば1000年遅れていると述べています。
 聖徳太子が、「和をもって貴しとする」と言ったのは、当時、様々な地域、樺太・朝鮮半島・揚子江周辺の海住民、南からポリネシア系が日本に流浪の民としてやってきた。彼らが来るまでは石器時代の縄文人が住んでいました。それらの民族が言語の違い、生活習慣などの違いによって争いに明け暮れていたからです。
 天下人聖徳太子としては、いさかいを起こすなと、そう言わざる得なかったのでしょう。太子の子供二人も政争で殺されます。養老先生はそういう風に書いています。
 そののち 日本では、秀吉の刀狩りがあり、千数百年後の明治維新で廃刀令が施行されます。アメリカの廃銃令もその位の時間がかかると言うことです。
 アメリカは、建国の時点で、自由を守るため銃所持を認めている。それぞれの移民が、同一人種と感じるまでは、自己を守るために武器が必要とされたのでしょう。
 日本人と言ってもそのまま通じますが、アメリカ人と言ったとき、イギリス系?ドイツ系?プエルトリコ、メキシコ、フランス、イタリア系、アイルランド系と想像します。今でも、統一したアメリカ人とは考えられないのです。聖徳太子の時代と同じです。

 アメリカでは、エレベーターに乗ると、同乗車に声を掛けると聞きます。異質な人々の寄り合いであるアメリカ人は、密室の同乗者に害があるかないかエレベーター内で確認しないと不安なのでしょう。日本人は、エレベーター内で、できるだけ顔を合わせない。ドアを静かに見つめているだけで、声をかけることは思いもしません。他人に危害を加える人がいることを想像しないのです。これが、日本人とアメリカ人との、他人に対する接し方の基本的な現れであると感じます。
 他者を、仲間か敵かに分別しなければ安心できないアメリカ人と、同質性が強い仲間意識だけで暮らせる日本との違いであるのです。
 欧米では仲間同士であることを表現するために、大げさにハグし、頬にキスし、敵でないことを示すため握手する。仲が良いことをそれほど過剰に表現しなければ、仲間の人間であることを証明できないのです。アメリカもあと1000年すると、日本のようになるか僕にはわかりません。移民がどれほど訪れるかによるとも思います。
 日本では、かつては他民族の集まりであっても、千年たった今、同一人種と考えるようになっています。こうして比較することでいろいろ解ることがあります。
 日本では、毎日のように、夫婦で愛しているよと言わないし、誕生日プレゼントや祝いの習慣は弱い。何事も夫婦協議のもとに、事を進めることはすくないし、夫婦でパーティーに出ることもない。日本の夫婦は、仲が悪くて普通であったのです。格別口に出さない意思の疎通です。父と子は会話しないし、母と娘は連れ添って買い物に行きます。が、息子は、母親癒着で苦しみます。
 移民の少ない1000年は、様々なことを平均化しました。エマニュエル・ドットは人口学者ですが、日本は権威主義家族で、親に権威が集中し、兄弟間では兄に権威がある社会とドットは言います。妻に向かって「男の会話に口を挟むな!」「女はだまっていろ」と言われてきました。亭主関白は、今でも残存しています。
 しかし、時間は様々なことの変化をもよおします。欧米の文化に触れ、自由、平等、基本的人権と戦後教育された我々には、かつての風習に嫌悪感を持っています。少しも偉くもないのに、親の権威だけで偉そうにする、と、個人主義がいきわたることになりました。
 父親に反抗した分、長じて結婚して権威をかさに話すことに自己嫌悪を感じる世代です。今は権威主義家族から、個人主義に変わるはざかい期にあり、まだまだ日本の家族は問題を抱えています。亭主関白でありながら恐妻家がいるのです。
 家族の問題は、世界中の人々の困難な難問です。養老孟司は、相手を変えようとするから大変なので、自分が変わればいい、と書きます。そして、医院を一人開業していた女医である母親を、姉が包丁を持って町内一回り追いかけたとつづります。
 内田樹は、離婚し10数年一人で育てた娘さんが、物心ついてきて、返事もしないし、言うことも聞かないと書いています。何とか家族が平安に過ごす方法として、子供をエイリアンと考えるようにしたそうです。同じようにやらないことに腹が立つので、猫とかレベルを下げると、猫なのにこんなこともできる、あんなこともできるとポジティブに考えられる。そうして親子関係の安定を図ったと書いています。渡辺京二は、ひとこと、男には好きな女がいることだよと、人生の必要事項を看破します。
 世界には、正常な人間はいません。皆傷物として大きくなります。傷物が育てる子供も傷物です。それでも、共同体を形成しなければならないし、家族の営みも続けなければなりません。そんな人間が、何とか生きやすいように、それぞれの地域の風習が出来上がっています。
 仲が悪くてもいい日本の夫婦関係も、時代の波に飲み込まれて、徐々に仲が良くなければならないように変化してきました。そのためのいさかいが増えてきているのです。アメリカでは、いまだにミソジニー、女性嫌悪が取り上げられます。日本では、恐妻家が多数見受けられます。
 自分の感情を表現することが生きる意味と,洗いざらい口にするようになったのです。確かに、感情はその場では止めることが不可能のように思えますが、それは、ほとんど気分であって、字面のように、分ければいいのだと思います。感情を持続するのでなく、気分なのだから、大事に取っておく必要がないのです。
 いつの日か、感情にとらわれない夫婦関係・家族関係ができるといいのですが。