2017年9月17日日曜日

山の隣人と大谷さん(2)


 

山の隣人と大谷さん (2)

 

アメリカから来た二人の子供たちはうつくしい顔立ちで、二世らしく日本人の和らぎと、アメリカ人の目鼻立ちをしている。

この二人が、山の家の玄関の扉の上に巣を作ったオオルリの子とダブって見える。

オオルリの子は、親を感じると、黄色い口ばしを大きく広げて首を長く伸ばし大きな泣き声を出すかと思っていたが、泣き声は出さない。静かなので巣を作ったことも知らなかった。人家の軒先に巣を作るオオルリは、目立たないようにしているのだろう。小鳥は、エサをやりに来た親が、巣の前でホバリングしている姿を眺めて、もっと長く首を伸ばす。ホバリングするか細いブーンと言う音だけを残して、親はすぐに飛び去る。巣を作っていても、それがテラスの椅子のすぐそばにあるのに、あまりに静かな生活をしているので巣立ったところは見なかった。男親は、うつくしいブルーで、お母さんは、目立たない土色だった。両親は遠いところで甲高い声で鳴くが、子は最後まで泣かなかった。

母親は、子供たちのケガや虫に噛まれないか注意を払っているが、ねこ可愛がりすることはない。子供を育てるのは、猫かわいがりするのではなく、けがをさせない、事故に合わせないなど注意することだと思っている。 親は、よほどの意志力を持たないと、母親から育てられたようにしか子供を育てる方法を知らない。その為母親に育てられた自分の過去が現れる。

二人の子の母がかつて話したことを思い出す。母親の連れ合いに可愛がられ、9歳で冒され、彼が亡くなった時には大声で泣いたと言う。母親に可愛がられた覚えがないため、岳父の非常識な行為でも、愛情と受け取らざるを得ない境遇だった。そういうことがあった場合、男嫌いとなり、男性にさわられることも嫌悪することがあるだろうが、彼女は、9歳で愛情と受け取ったのだ。長じて彼女は時々落ち込んでふさぎ込み、部屋から出られず、生きていないように隠れることがあると言う。9歳の喪失の善悪を自問しているのだろうか。

この話は、映画「プレシャス」とほとんど同じだ。父親に冒されふたりの子を産んだ高校生のプレシャスは、母親に可愛がられることはない。母親は、夫がプレシャスを可愛がるのに我慢が出来ず、暴力を振るい、邪険に扱う。それでも、子供は母親の愛情を疑わない。私が悪いから母はしかるのだと思う。母親がプレシャスに夫を取られたとカウンセラーに心情を告げるのを聞き、愛されていないことを知り、プレシャスは独り立ちする。

彼女は、自分にやさしくしてくれる人に敏感で、邪険に扱われると子供時代がよみがえり耐えられなくなる。これらの過去は、彼女の責任ではない。子を愛さない彼女の母親にも、責任があると言えないかもしれない。世界は悲惨に満ちている。何事もなく人生が過ぎればいいのだが、ことあるごとに、表面に現れて、現実生活がおくれない。世界を理性で眺めれば喜劇に見え、感情で眺めれば悲劇に見える。

二人の子は、母親にささいなことでも話しかけ、子供たち同士で数分も遊べない。何かあると母親のもとにやってきては報告したり、たずねたりしている。母親が消えてしまわないように、気を付けているようだ。時々母親が失意によって落ち込み引きこもることがあって、いつも顔色をうかがっているのではないかと思った。

オオルリは、親が育てたように、子も同じように育てる。

親がそばにいても鳴かないオオルリの子と、親の存在を感じ続けていたい人の子も、幼年時代を背負って、親と同じように子を育てるのだ。

弟は、普通にわんぱくで男の子らしく見えるが、兄は、か細い神経におびえながら生きているように思う。お母さんは遊んでくれないと僕に言い、僕の似顔絵を上手に描き、ピアノも即興でメロディーを奏でていた。この兄は、母親と同じように母親の愛情に飢えて育つだろう。そのためには、この子には、表現の機会を多く与えるといいと思う。表現には、自己慰撫があり、生を充実させるものがある。二人の子供にとっては見守り、抱きしめ、精一杯可愛がることしかないと思う。

 

彼女が26歳のころ、笑顔が子供のようで、可憐だった。いつもにこにこしていたように思う。そのとき僕は46歳で今の彼女と同じ年齢だった。欲望を持ち、相手を見る目は幼稚な46歳だったろう。家内の目、自分の立場を守る傾向があって、女性にはあこがれとか、ふつふつとした欲望があっても、積極的になったことはすくなかったと思う。だが、彼女は壁がなく、まるで天使のようだった。彼女が渡米して僕にとってよかったのかもしれない。女性特有の井戸端会議をすることはなく、確信しか話したくない人のようで、アメリカ生活が自分に合っていると言う。

駅に彼女と二人の子供を迎えに行ったとき、彼女は土色のくるぶしまであるワンピースを着、腰にはベルトがなく、すらりとした頭から下に洋服がおおいかぶさっているようだった。簡単に挨拶をすると、子供たちは、日本語でこんにちはと挨拶をした。20年も経っているのだ、僕の体にも、彼女にも生活が体に染みついていてもしょうがないことだ。作っていた冷たいビシワソワーズと、ビーフシチュウとチーズケーキを、子供たちは、おかわりをしながら食べてくれた。彼女は、赤ワインを飲みながら、時々食べている。久しぶりに僕もご相伴しようとビールを飲んだが、体調悪く一杯で止めてしまった。

懐かしい話になると、あの時の可憐な笑いがよみがえる。あの人を引き付けるほほえみは何なんだろう。無防備で、今でも脳裏に焼き付いて思い出せるほど魅力的な笑い顔をする。遅くならないうちに帰ることになり、車で駅まで送っていくと、生まれて初めて心のこもったハグを長男から受けた。誰に言われるわけでなく抱きしめられ、ほほにキスしてもいいとたずねると、うんと言うので、腰をかがめ両ほほに僕のほほを当てて、映画のようにできたと思う。

 

なぐさめるということを考え始めると、何か言おうとしても、言葉の不足を感じて僕は、言葉が出なかった。それでも、挨拶の後にもう一度まいちゃんと訪ねてきてくれるのだから、大谷さんには不満はなかったと思う。

山の家に来てくれる人には、出来るだけの歓待をしたいと、ただそれだけは心している。それぞれの個性や癖は、自然過程でどうなるものでもない。それぞれの友人の過去を感じて、今を見つめて、一人住まいのさみしさを、訪ねてくれるのだから、精一杯の料理を食べてもらえればいい。何か話があって来てくれても、料理作りが忙しくて、話さないで帰る人もいただろう。それでもいいと思っている。話すより、料理を食べてもらえればいいと思っている。

言葉は軽くてすぐに消えていく(文章は別だ)。僕は生きるこころの支えが、料理を食べることだと考えているのかもしれない。だいたい人の言葉は、7,80%聞き逃してもいいものだと思っている。ほとんどの話は気分で会話し、自分の気持ちを表現できない。自分の感情を表すことが、自分の人生だと思っている。

自己執着の対語は、無執着、無私としか言いようがない。自分には、無理だとわかってそれを課しても、人に言えるほどの行動は出来ない。

クサヴィエ・ドランと言うフランス系映画監督がいる。二十歳で撮った母親との確執を描いた「マイマザー」でカンヌを驚かせ、続く3作ではホモセクシャルをカミングアウトした作品の後、もう一度母親を描いた「マミー」を撮り、今「たかが世界の終わり」で。母親と家族の確執だけを撮った。これらには父親は存在せず、自己執着した母親と兄弟の諍いが描かれている。この作品でカンヌのグランプリを受賞した。この監督は、主演し、脚本を書き監督もする若き美貌の青年だが、自己を濃縮して表現することを映像に課している。日本人は、仏教徒を経て、自己執着に幾分はずかしさを感じるが、彼らにはその歴史がない。

彼らが使う言葉は、ナイフのように相手を切り刻む。日本人の執着とは異質だがそれでもしょうがないと受け取れる表現になっている。

 

子供が泣いたらだっこしたり、さすったりする。しょんぼりしていたら背中をさすってやる。いい子だなと頭をなぜることもある。

なぐさめるとは、そうした肌を合わせることではないだろうか?と、ふと思う。

人には、準静電界という電気の膜が体じゅうをおおっている。また、体にも電気は流れている。その電気が相手に流れて、また、相手から流れてきて体内の電気的変換が起って、なぐさめられたり、なぐさめたりしているのではないだろうか?

肩がこった自分の体を自分でマッサージしてもこりは治らない。他者のマッサージによってコリはほぐれる。電気的交流によって自分の筋肉が正常になると考えられる。

大谷さんの病室に入った時に、大谷さんを見てその腕に手が向かった。家内は足をさすっている。言葉をかけることは、大谷さんの意識に向かっているが、肌に触れることは、大谷さんの身体に直接染み込むことだろう。

源氏物語に「おもいなぐさむかたありてこそ悲しさをもさますものなめれ」とある。最後の時、なぐさめられるような相手が残っていてこそ、悲しさをやわらげるもののようだと、意訳にある。意識がもうろうとしても、握られている手を感じて、この人が私の代わりに生きていてくれるのだという思いが、死に行く人の悲しみをやわらげると言うことだろう。そうかもしれないと思う。

なぐさめるは慰と書く。白川静の字解によると「火のし(アイロンのこと)して、布が平らかに、のびやかになるように、心がのびやかな状態になること」とある。ちじこまった心を、平安にすることなのだろう。

 

今年の正月は、子供にも会わず、一人で山で3がにちを過ごした。家族でいざこざがあって、山を下りたくなかったのだ。ささいなことなのだが、こらえ性のない僕は、けんかなどはしないが、一人で山にいた。3日目には、孤独感が襲い、これはまた、鬱に落ち込むかもしれないと不安が訪れた。気を付けないといけない。それから、正月から今まで人肌が恋しく感じ続けている。ありていに言えば、添い寝してなぐさめてくれる女性がいればと欲望が起る。

7月アメリカから帰郷する彼女を、様々な思いで想像した。二人で、夜お酒を飲む場所で会いたいと言われて、その後どうなるだろう?と思い。山に来ると連絡があって、泊まるのだろうか?と想像する。彼女の現状を知らないのに、こちらの妄想だけがふくらむ。

人は、いつまでもなぐさめてもらいたいものだと思う。宗教とは、信心する人をなぐさめる機能がある。神に祈る、すべてが明確だと思っている神に、苦しみを取り除いて、なぐさめて欲しいのだと思う。その時の神は、宇宙に充満する気と考えればいいのだろう。気は電気的にできている。我々生命体を構成する原子は電気的にできているから。

 

音楽は、音波として僕たちの耳が聴き、どうしたことかそれが心にしみる。言語を話す以前は、音楽で意思疎通をしていたと言われる。他の動物の鳴き声が、音楽と思えるように。だから、僕たちは音楽を聴くと、相手の発する音の意味を考えようとする癖がついているのかもしれない。ある種のサルは、ピーピーと鳴き、仲間に敵が来ると知らせ、仲間が逃げると仲間が食べていた実を、独り占めする。そのために泣き声を立てたのだ。音の種類が少ないから、音の微妙な高低で表現するのだろう。

ピアノ曲が、その表現を繊細に表す。しかし、今はバイオリンの話をしたいと思う。このところわけあって、モノラル録音のバイオリンを聴くようになった。レオニード・コーガン、ロシアのバイオリニストだ。ギーコギーコ弦を弓で押さえつけすぎて、美音とは言えない音で演奏する。現代の演奏者は、こんな音は認めないのかもしれない。今では曲に合わせて、音調を変えることが技量と考えている、役者がどんな人物でも演じるように。

コーガンは、曲に合わせて音を変えない。多分変えることが出来ないと思う。朴訥で、無骨そうなコーガンの弾くバッハは、真摯にバッハを身近に感じて、そのまじめさに、心が打たれる。自然と、音がこころにしみいる。バッハを表したいという意欲が、バッハとコーガンが一体となって、その追及の真摯な様が、音楽の神髄として聞こえてくる。

次に、ジオット・ヌボーのバイオリンCDが、僕のもとに来るべくしてきた。コーガンは名前こそ知っていたが、ヌボーは聞いたことのないバイオリニストだ。だから、手に入れることなど考えられなかった。コーヒー師匠の熊谷さんが、ダブって買ったと言うので、譲ってもらったものだ。CDケースには、立派な若者が、バイオリンを首に付けて演奏している写真がある。山に帰って、音出しすると、バイオリンの細い線がチリチリと震えている。やさしさの満ちたタッチで、世のすべての人が味わう悲しみが、ことにピアノシモで弾かれると、泣きべそをかいているようだ。どうしてこの人はこのような音を出すことが出来るのだろう。コーガンにしろヌボーにしろ、この人にしか出せない音を出すことが出来る。ヌボーは、では違う音色で弾いてくださいと師匠に指示されても、私はこの音を変えるつもりはありませんと答えたと言う。名手オイストラフが、二位で、ヌボーが一位になったコンクールでは、オイストラフが12歳年上だが、ヌボー譲が、一位で何ら申し分ないと手紙が残っているそうだ。てっきり男性だと思っていたヌボーは飛行機事故で亡くなり、30歳の命の費やするだけの録音しか残っていない女性だった。ティボーにしろ、メニューイン、クライスラー、シゲティーこの時代の人たちは、自分の音をもっていた。

山のオーディオルームに、17世紀のラ・トゥールが描いた荒野の聖ヨハネの複製の絵を掛けている。16世紀のカラバッジョが、同じ題材の聖ヨハネを、子羊(のちに消している)と十字架と若者が足を広げている図がある。ラツールは100年あとに同じ題材で、カラバッジョへのオマージュのように、荒野の聖ヨハネを画いている。聖ヨハネは、イエスに洗礼をし、サロメに首を切られる人物だ。カラバッジョは町の若者を描いたが、ラツールは、背中をまるめ表情が少し見える横向きの羊飼いの顔を画いた。顔、胸、腹、ふともも、両腕、膝小僧の中には真っ暗な空間があり、横向きの悲しげな表情だからこそだろうが、その真っ暗な空間の中に、世界の悲惨が詰まっていると見えてしまう。大切だと思うからこそ壁にかけているが、それと、同じ思いを抱く音楽に感動する。

考えると、これは、ちょっと不自然だろう。ウキウキする音楽があり、引き締まる音楽もある。また、希望を抱く音楽があり、大自然を感じる音楽もある。幸福を感じる音楽に、幸福だと感じても、僕が収集したい音楽は、石川啄木のわれ泣きぬれてカニとたわむるという、大正期のセンチメンタルなものに特化している。僕にとっての音楽は、なぐさめだと思っていて、悲しみの音楽を選ぶ、これは病状なのかもしれない。

作曲家と演奏者が、彼らの気持ちを表現する。(こころではありふれている。)

音楽の中に、人が生きている気持ちを表して生きている。

やさしい気持ち、愛情に満ちた気持ち、悲しい、悲惨、孤独、人の気持ちを表す音楽は、旋律の美しさ、音自体の美しさにあふれ、包まれる。作曲者が目の前に現前して、失恋や苦痛に涙している。それを感じて、聴衆は涙ぐむ。(涙と関係ない音楽もたくさんあるが)

気持ちが現れ、その気持ちを感じることに、僕は、なぐさめを感じる。

ほ乳類として、母の胸と乳を経験したものの宿命なのだと思う。

 

2017年8月30日水曜日

山の隣人と大谷さん


山の隣人と大谷さん

 

普段は伊勢崎で夕食を取って8時ごろ山の家に帰る。


山では、黒いクヌギの葉がおおいかぶさり、空が点々としか見えない真っ暗なテラスに座り、コーヒーを飲み煙草を愛飲する。週末は、自分で食事を作り、音楽を聴き、本を読んで、夜になると映画を見る。その間、何度もテラスに出て、たばこをふかし、コーヒーを飲む。テラスから見える漆黒の数百本の木々とざわつく小梢の景色は格別である。明るい昼間の景色の植物の息づかいを感じる気持ちよさとは違う、いろいろな霊気や気配だけが漂っている黒の世界である。
のんに声をかけるだけで、人と会話を交わさないが、このところ、山の隣人が時々訪ねてくれるので、そういうことは少なくなった。いつか、それらの隣人や友人たちのことを書きたいと思っていた。


夏、大谷さんが70才を迎える前に亡くなった。山の隣人と彼のものがたりを語ることで大谷さんの冥福を祈りたいと思う。


 


春先に、大谷さんから挨拶がしたいと電話があった。


いつもは、一泊して落ち着いて帰るのに、夕方に来て、夕食を食べて、9時には帰って行った。スープとカレーとデザートを美味しそうに食べてくれた。


電話で知らされていたが「すい臓がんであと一年半と宣告された」と言う。はじめの医者は、「すぐにでも手術を」と言い、次のすい臓がん専門医は、「手術などとんでもないそれでも、あと一年半でしょう」と言ったという。大谷さんは、いつもと変わりなく食事をし、元気そうで、余命いくばくという気持ちは表さなかったが、痛み止めを日に6回飲むと言っていた。

最後の別れに来てくれたのだが、粟島の知り合いの民宿の奥方の浮気話が始まり、主人は男っ気がある縄文時代のような風貌の漁師だが、奥方が女学校の教師をしていた時に民宿に泊まるようになり、結ばれて一緒に生活するようになった。だが、泊り客との浮気が原因で夫婦仲が険悪になり、誰がいようと諍いが始まり、村中の評判になっているらしく、金を出してくれれば出ていく!などと叫び、民宿のお客も立ち寄ることが少なくなって、村人から隠れて生活しているという。彼ら夫婦が楽しそうにアジ釣りをしていたり、少し村の人とは雰囲気が違っていたが、ご主人を親方などと書いたブログを見て、90を超えた母親と楽しそうにしているように思っていた。ブログは夏の初めにかかれたきり、一か月以上更新されていないので、その後二人がどういう経緯をたどったかわからない。そんな話や、鬼顔の釣り師で、粟島のアイドルおんちゃの話などして帰って行った。

それから、3か月程して、大谷さんのメッチェンまいちゃんと、その父親と大谷さん三人で山の家に泊まりに来た。まいちゃんは大谷さんに連れられて3、4回山に来ていた子で大谷さんが今時珍しいいい子だと感心している。3年ほど前に、慶応大学在学中に、まいちゃんの友人3人と、大谷さんが泊まりに来て、翌年と昨年にも来ている。

夏には粟島で、民宿市左衛門の番頭さんをしている大谷さんは、東京で個人タクシーを経営し、年間一か月以上粟島の美人女将のいる民宿の手伝いをしている。腰が軽く、女将の言いつけに素直に従い、村の人たちも大谷さんと親しく、子供たちにはアイスを買ってやり、東京から来るときには、車いっぱいに土産を持ってくる。僕は、ほとけさんのようだねと言ったことがある。大谷さんは、民宿の手伝いを、泊めてもらえればと言うことでお金はもらっていなかった。
東京ではやもめ暮らしのため、粟島では家族の一因のつもりでいたのかもしれない。僕も釣り仲間としてそこで知り合い、彼は気兼ねなく若い女性に声をかけ友達作りに励んでいた。まいちゃんとは、青年協力隊か何かで滞在しているときに知りあい。彼女も粟島が気にいりたびたび行っているうちに、東京で会うようになり、父親とも知りあいになったようだ。

その日、駅まで出迎えに行くと、ぎっくり腰になったとまいちゃんと父親に肩を支えられて歩いている。からだはやせ細り、顔も小さくなっている。3か月でこれほど悪化していたのだ。山まで来ても、布団を敷いて横になっていることが多かった。夕飯に色々作って、ビワのコンポートを出しても、ワインの味を受け入れられなくて、おかゆを食べるというので、おかゆにおかか、海苔の佃煮を出すと、いくらか食べてくれた。

3人が来ると、青木さんも顔を出し、ウサギの飼育をしている隣家のTさんにも声をかけていた。せっせと、ビーフシチューやトマトのスープ、タンドリーチキンなど用意していると、Tさんと青年が来た。

ウサギのエサを前橋からやりに来ているTさんは、多分50代後半で亭主に袖にされて一人暮らし、山小屋に今では50匹近くのウサギを飼い、夜中に来たり、朝方来たり、毎日ほとんど欠かさずエサやりに来ている。その姿を僕は7,8年見ている。土砂降りの雨の日も、雪の日もほぼ毎日エサやりと、水の交換に来ている。紛れ込んできたウサギを捕食する猫も10数匹エサやりしている。ペットを飼っているのではなくペットに飼われている状態だと思うが、それが彼女の孤独と愛情が入り乱れた人生なのだろう。人への愛情は成就されないが、ペットなら自分の思うようになる。そのペットが1匹が2匹となり、子を産み続け、今では、数の多さが愛情の深さと勘違いするまで増えている。

彼女の足元で子ウサギを前足でつかまえ食べている猫でも大事に飼っている。ウサギが一匹でも逃げれば、青木さんを呼びつけて一緒にウサギを追っかけていたが、猫が食べても、どうにかしようとは思わないようだ。

その格好をかまわない彼女が、先日バングラデイシュの6人のアーリア人特有の端正な顔立ちの語学学校の若者を我が家に連れてきて、彼らの窮状を見かねて何かしてあげたいと話していた。

大谷さんが来たその日は、いつものざっくばらんなポニーテールを止めて、髪をとかしてソバージュ風に女になっていて驚いた。横には、一人の好男子なバングラの若者を連れて、この子はよくできる子だと説明するが、ふーむこれは少しふーむだなと感じる。

彼らも晩餐に加わり、大谷さんは寝たままで、まいちゃん、父親、青木さんにせっせと支度をしては料理をだす。食べ終わると、若者は、自己アピールをまいちゃんに語りはじめ、Tさんは、彼らの付き合いが成就するように、なにやら後ろ盾になって、東京で会えば、帰りは一緒に東京の電車にすればとか言い始める。彼らに話は任せていればいいようなものの二人のそばにいて離れない。彼女は、奥で寝ている大谷さんのことも気にも留めず、大好きな食事の味についての批評もなく、彼らのことに夢中であった。

まいちゃんの父親は、僕の部屋で中島みゆきを聴いている。青木さんはあっちに行ったり、こっちに来たりしている。

1時間、2時間と彼らとTさんだけが、テラスで会話をしている。まあ、これでもいいんだろうと思っていたが、遅くなったので声掛けすると、二人の記念写真を撮ろうと若者とまいちゃんが立ち上がり、アイホンを前にかざして二人は写真を撮っている。若者の後ろでは、ソバージュのおばさんが喜々としてキャキャと声をあげ若者の後ろから彼の腰に手を当ててはしゃいでいる。これはいったい何なんだろう?そうか、彼女は彼に恋しているんだ。

Tさんは英会話が堪能で、裕福なうちに生まれたのか、わがままは少し度を越していた。彼女は、新潟で介護されている母親の病院と諍い、山の家の管理事務所には、払えない管理費を、道路の掃除がいきわたらないので払わないと言い。これは今まで旦那が払っていたが、今年は入金されなかったためだ。バングラの若者の為に争い、意に染まないことがあるとどこででも言い争って諍いごとを起こしている。

時間の観念が希薄で、僕のうちに朝の4時半に来て、僕の好きなフランスパンを一本持ってきて半分わけしようと言い、青木さんへは夜中の1時ごろ訪ねたりしている。躁鬱を抱えて、夜中道路の端に車を止めて寝ていたりする。家内が大谷さんの状態を見に、伊勢崎から大谷さんへ杖を持って訪ねてきたが、Tさんの顔を見るといそいそと帰り支度をして帰って行った。

次の日も大谷さんは寝たきりで、やっと、まいちゃんとその父親とゆっくりテラスでコーヒーを飲む時間ができる。まいちゃんの父親は、般若信教の研究会に出ていて、その本を置いていった中に名刺も挟んでいて、日本創生会議会員、倫理研究会と書いている。そうか、話が盛り上がらなかったのは、僕が今の政権に嫌悪感があって体調を崩したと何気なく言ったので、日本会議の下部組織であるそれらの会について、持論を展開することを止めたのだろう。帰っても礼のメールもなく、会員拡張の予定が崩れてしまったのだろう。

Tさんは、バングラの若者たちと知り合ってから、ウサギが脱走しても気にせず、今はバングラの若者に夢中だ。毎日僕の家の回りまで、エサをついばみに来るウサギは、猫と追いかけ合いをしたり、道路に寝そべって車を怖がらないので、危うくひきそうになる。

先日は、休みは日本海に遊びに行きたいと青木さんにつぶやいていたその日の朝にパニック症が出て、2日間エサやりに行けないからと青木さんにメールでエサやりを頼んでいた。パニック症なのか、2日間限定なので若者と日本海へアバンチュールかわかったものでないと、青木さんに注進するが、青木さんは、それでもエサをやりにウサギ小屋に通っている。

 

まいちゃんのお父さんの日本会議の人たちは草の根活動をしていて、まじめに日本国のことを心配する人は会員になりやすい。だが、彼らはすべて上目目線だ。イデオロギーに染まるとそういう風になりやすい。腑に落ちないのは、彼らはどうしてアメリカの属国である日本に対して異議を唱えないのだろう。また、誰かが自虐史観と言う言葉を造語した時から、歴史修正が始まり、ヘイトスピーチを始めるようになった。日本会議は、愛国者というより党派を拡大して、彼らのイデオロギーにもとづいた国を作りたいという思いなのだろう。

 

数年前から知り合うようになった退職した大学教授が夫婦別々の小さな山小屋で暮らしている。ピアノの練習があるので別に住まいがあるようだ。一昨年から、わが家へ饗宴に来ているが、知識も豊富で話が面白く弾むので、土日の夕方に誘うと食事に来るようになった。その先生が、国体とか改憲の話になるので、それは僕には受け入れがたいと述べても、誘うと毎週のように夕飯にきた。先生は、週の一日早朝に、公衆トイレの掃除にボランティアで、それも、素手でされると言う。それは奇特なことをされていると思うが、なぜ、ゴム手袋をはめて掃除をしないのか気になる。自己修行とも言うが、なにかイデオロギーめいたものを感じて、腑に落ちないで調べると、美しい日本を創る会と言う組織の活動と言うことだった。この会も、日本会議の末端の組織で、組織の活動の広さに驚愕する。

先生は、うちに来てもピアノを弾て童謡を歌い、ホテルでボランティアのピアノを弾き続けるが、これもまた、日本会議のイデオロギーに基づいた、美しい日本の草の根運動ではないかと疑っている。お誘いすると来られるが、コーヒーを飲みに立ち寄ることもないし、先生から誘われることもない。僕からの一方通行なので、別に、友人関係を築きたくないのだろう。そう思うと、このところ誘うことがなくなってしまった。

奥方は、学生時代から歌曲を選考し、その時には、ただ練習していただけと言うが、一昨年から、東京まで出かけてモーツアルトのレクエムの練習に励み、スイスでプロのオーケストラとコンサートをし、昨年も、ベルディーのレクエムを練習して、アムステルダム・コンセルトヘボーをバックに歌う予定だったが、発声の為の過度の運動がたたり、左足付け根の骨が骨折して、3か月の入院となりコンサートも中止になった。僕は年寄りの冷や水では可愛そうなので、脳は若くても体は年なりを伊藤病と名付けてかまったが、さぞ残念なことだったろう。

庭の植栽に心を尽くし、山の鳥にも愛着が深く、わが家の、玄関の扉の上に巣作りした鳥を一時間観察されて、おおるりよ、間違いないわよ、きれいな青色のオスがエサを運んでいたわよと、電話をいただいた。夫婦はだいたい、同じ考えになるので、奥方も先生と同じだと思われるが、特にその話はされず。山の生活の話でなごむことが多い。

 

日本会議本を2冊読んだが、彼らは、戦後の家族形態が個人主義に陥り、子供は言うことを聞かず、とんでもないことになっていると感じている。父親の葬儀にはるばるやってきた兄弟の面倒を見ない長兄に、戦前はそんなことはなかったと憤っている。父親の言うことは絶対で、長兄にも敬意を払い、自由や平等思想は愚行だと考えている。彼らが人権などないほうがいいと言うのは、その家族制度が優れていると思っているからだ。日本人は、自信を持っていないと考え、自虐史観によって、自国を恥ずかしい国だと思っていると考えている。そのために、歴史を改ざんし、素晴らしい日本感を植え付けようとする。
しかし、個人主義は自然過程で、奴隷制度も廃止され、植民地政策も止めたように、戦前の家族制度は、変わるべくして変わったものだと僕は思う。人権尊重、自由、平等は富めるものも貧しきものもすべての人類が尊重されるべきで、人類の希求されるべき未来だと思う。そうはいっても、親の言うことを聞かない子供問題は永遠に続くだろうし、家族の諍いは簡単にはやまない。

僕がその時にいつも思い出す言葉がある。ソクラテスの弟子が、「師匠、好きな子がいるのですが結婚すべきでしょうか?どしどし結婚しなさい。良妻なら幸せになり、悪妻なら哲学者になれるから」に人の生き方が尽くされていると思う。ソクラテスの言葉は、人類が続く間生きている。僕たちは、個人主義の困難な関係に、まあまあでも、潔癖でなくとも答えを探さなければならない。ソクラテスの哲学者になれるという言葉は、人類に与えられた考える力が、福音になると受け取るべきなのだ。

国を考えると、防衛を考えざるを得なくて国軍とか必然的に行きつくだろうが、あなた自身を先に考えたほうがいいのではないかと思う。自分は何者で、どうしてこうなっているのか、そのほうが先だと思う。ソクラテスの悪妻は、自分を哲学者にしてくれる。じゃあ国はどうするの?と問われたら、だれでも隣人と共生しなければならないように、ことさら敵対を考えるより、共生を考えるほうが先だと思う。国軍の大将になったつもりでなく、国って何と考えるほうが先だと思う。
どうせほとんどは、大将にはなれず、その時は、本人か家族の誰かが前線にやられるのだから。元の防衛相が、戦争によって霊魂が清められると何かで言ったようなので、彼らに日本を任せれば、暗い未来が待っている。

 

二人に抱えられた大谷さんを高崎駅まで送り、翌日病院に入院した大谷さんから、まいちゃんのお父さんから本をもらったけどあれはなに?と電話があった。上記のような話をして、大丈夫?と尋ねるが、うちにいたときより力のある声で返事があった。

その1週間ほど後、粟島の漁師で釣り師の師匠である栄さんから電話があった。東京の病院まで市左衛門の女将栄子さんとお見舞いに行ったけれど、その時は、ベッドに座って話をしていたが、その後大谷さんと僕との共通の釣り友である座間さんから連絡があって、今は昏睡状態で、何もわからないようだと、連絡があったという。えーと絶句する。あと一週間持つかどうかだそうだ。うーん、明日も明後日も用がある、土曜ならいけるかなと逡巡していると、孫たちの面倒を見てもらっていることを知っている家内が、土曜日朝から行こうと言う。座間さんに様子を聞いて、土曜に東京に出かけた。

大病院のその部屋に着くと、なにか異臭がするが病院のにおいと思っていた。やせ細った枯れ木のような大谷さんは、頬はなく、目はくぼみ、鼻から口には呼吸器をつけて布団が無造作にかかっていた。「大谷さん!伊勢崎の近藤だよ」と声をかけると、パッと目を見ひらいて、僕の方を見るでなく、虚空を見つめてすぐにつむってしまった。何か言いたげに胸を膨らませ、口をもごもごさせ、小さな声が出ていたが聞き取れない。僕に何か言いたかったようだ。大谷さんのことだから、この前はありがとうと山の礼が言いたかったのだと思う。

手をさすっても感じてないように見える。家内が足元で足をさすっているが、同じようだ。近くの、看護婦に声をかけて、声掛けしても大丈夫ですか?と問うと、えーいくらでもかけてくださいと言う。今お兄さんたちがいらっしゃっていましたと言う。

大谷さんは、お坊さんにお金を払うのはばかげている。出来れば、この病院に献体してお金は使いたくないと、山に来たときに言っていた。山の友人の青木さんも多分その考えだ。

人類は、教育と、法整備と、慰霊がなければ社会は成り立たないと思う。亡くなったその人を慰撫してお祭りし、親類縁者も安寧をいただく。それがお葬式だが、お葬式はやらないと言っている。大谷さんのお兄さんがどういう風にするかわからないが、遺骨は一年半後に遺灰となって帰ってくるそうだ。粟島の栄子さんたちは、お墓に入れる時に京都にお参りに行くと決めている。

お葬式という儀式性が勝って、しなければいけないことが増え、それに反発する人が増えている。お葬式は身近な、亡き人のことを語れる人に限るほうが自然かもしれない。会ったこともない人のお付き合いのお葬式は、本来のお葬式の意味からずれているのだろう。通夜にみんなで集まり、亡き人のあれやこれやを語り、亡き人の思い出話をすることで、安心して成仏してもらう。
お葬式をしない大谷さんに、この文章もそういう意味で書こうと思った。

30分も立たない20分位大谷さんのそばにいただろうか、静かに帰ろうと声掛けしないで引き上げた。多分大谷さんは、幻想の中に生きている最中なのだ。意識が絶え間なく覚醒しているわけではないだろうが、おぼろげな幻想の中で死を知らずに漂っているのだろう。僕たちは、末期の姿を見て驚くが、考えてみるに、大谷さんは幸運な死に方なのではないかと思うようになった。交通事故で不慮の死を迎えるわけでなく。戦争で体を切り刻まれてなくなるわけでなく、ごく平常な死を迎えられている。

僕に挨拶に来られたし、可愛がっていたまいちゃんとも来られたし、僕たちもこういう風に死んで行ければよしとする姿だ。

家内の母親の最後は眠っているようで息使いだけが見えていた。家族が集まって、ベッドの横で見ていた時、吸った後息を吐き出さないので、お母さん!と声が出た。息を引き取るとはこのことだとわかった。僕は、父親の死に目も、母親の死に目も見ていない。

いやなのは、体にコードが付いて、脈拍、血圧、呼吸のグラフがぴ、ぴと鳴り、それが、体調が悪くなると大きな音に変わる。看護婦に知らせるためなのだろうが、僕はこんな音を聴きながら息を引き取りたくない。出来うるなら、何でもいいから、例えばベルディーの乾杯の歌のようでもいいし、モーツアルトのアベベルムコルプスでもいいし、パーセルの私が土に横になるときが最高だが、病院に流れているバックグラウンドの音楽でもいい。無音でもいい、あの、甲高い機械の音だけはやめてもらいたい。

部屋を出ると、家内が死臭だねと小声で言った。家内も死臭がどういうものか知らないはずだが、そうだねと僕も答えた。あくる日、早朝山から下りてくるとき、牛小屋と、泥土に囲まれた道路から、同じ匂いが漂っている。腐敗した有機物の匂いだろう。大谷さんの体も細胞が再生せず、腐敗が始まっていたのだ。

その日、座間さんから電話があって、朝亡くなったと知らされた。お兄さんたちが立ち会ったようだ。そうかとだけしか答えられない。吉本隆明は、死と生とは別物で、人には死を考えることが出来ない。生あるうちは、最後まで生に縛り付けられてそれでいいと言う。死を向かえて達観するのは人間には無理があるのではないかと言う。

大谷さんは、ずっと一人暮らしで、若いとき中国人の女学生を養子にとり、銀行のカードを渡し、それでも、彼女は大谷さんとは近親の生活をしなかった。最後には、香港に買い与えたマンションも勝手に売り払い、大谷さんの介護をしたとも聞かない。

大谷さんに問わなかったが、一人で死を迎えることは脳裏になかったようだ。百万をお兄さんに渡して、京都に引っ越して面倒を見てもらうと言っていた。大谷さんに結婚歴があるとは聞いていない、中国の彼女とも同居はしていない。だから、一人を覚悟していると思っていたが、そうではなかったようだ。僕のことを言えば、医者にかからないで山で居たいと今は考えているが、その時は、わがままとしてその通りにはならないだろう。

大谷さんは釣りの時期は、粟島にお客があるので手伝いをし、冬になると、タイやカンボジアなどに出かけて現地妻がいたようだ。結構な人生だったのではないだろうか?ただ、なぐさめてくれる人を持たなかった。諍いが続く夫婦でも、それでも、居ないよりいたほうがいい。諍いができるし、時には、愚痴も言えるかもしれないし、少しの良妻こころがあれば、なぐさめてくれるかもしれない。死期を迎えて、ベッドの隣で手を握ってもらえるかもしれない。(それには、生前に相手に対して寛容心と我慢が必要だ。)

やはり、ソクラテスが言うように、どんどん結婚すべきなのだろう。

今年の6月に粟島に釣りに行くと、女将が開口一番話があると言うので聞くと、後1年半とは言わなかったようだが、すい臓がんと言われ10月までここにおいてほしいと大谷さんに懇願されたそうだ。話の末、それは無理と言うことで大谷さんはあきらめたようだが、彼にしてみれば、疑似家族として奉仕していたつもりなので、頼みたくなったのだろう。栄子さんとしては、両親や家族ならどんなに忙しくとも、面倒は見ることは出来るだろうが、大谷さんが滞在しているときには下着まで洗ってはいても、それは、無理だっただろう。大谷さんと一緒に来た座間さんが、面倒見てやってよと懇願して、いよいよ苦境に立たされて、家族でないのにと言いたくないひとことを言ってしまって、こんなこと言わせないでよと、落ち込んだようだ。

栄さん栄子さんの粟島の恋人たちが、大谷さんの見舞いのとき、大谷さんがベッドに座って、たまらず涙を流したと聞いた。話の前後を聞いていないが、大谷さんの心は何を思って涙したのだろう?

大谷さんは栄さんとも親しい、それでも、始終プラトニックであっただけに栄子さんを思う心は残っていたのではないかと思ってしまう。

一年半ではなく、宣告後7か月の寿命だった。
2017年7月31日享年69才だった。

 

青木さんが僕の出勤前にやって来て、Kさんが死にそうなので病院に連れて行ってほしいと、夜中に電話があったと話し始めた。心臓がどきどきして生きた気がしないので、山を下りてみどり市のいつもの病院まで連れて行き、すぐには結果が解らないのでしばらく入院することになったそうだ。

Kさんは、10数年前に糖尿と診断され、体重を半分近くまで落とし、それでも食べ物を制限し、2時間の散歩を欠かさず、まるで修行僧のような毎日を送っている。山に永住し、青木さん一人を友として、孤独な毎日だ。かつては都内で流行ったスーパーを経営し、好き勝手な生活がたたって、奥方に離縁され、そのスーパーを継いだ子供とも連絡がないと言う。青木さんにカギと、何かあった時は連絡してと子供の電話番号を渡している。

一緒に食事をすると、カリウムが入っているとか気にされて、また、花のバレーを見に来てもらったりしたが、いつからか来なくなって、今は、週一回ぐらい、飲むのを止めているコーヒーを青木さんのうちに行って、甘いものも食べているようだ。昨日は、青木さんが渡した甘いものを持って帰ったので、そのせいで発作が出たのだろうか?と、青木さんが心配している。2時間の散歩のほかは、日がな一日テレビとパソコンで過ごしていると言う。彼にしてみれば普通の毎日だろうが、孤独なさみしい毎日を送っていると思ってしまう。彼は、現実がリアルで、遊びも、趣味も、楽しみもそれらがなくとも、自己管理の制限力と病気との闘いに人生がかかっている。

そんなKさんを相手にしている青木さんは、5,6年前からの知り合いで、花と散歩をしていると後からついてきて、可愛いいと花を見染めて、変なおじさんがいる位に思っていたら、今では、気ごころも知れて、なにかれと話をするようになった。

奥方は、佐賀の副島八十六の孫で、国立図書館の書士を退職し、男の子二人は独立し、調布で独り住まいをしている。奥方の母親は、祖父が日印協会の関係で、インドの詩人タゴールが来日したとき、タゴールに少女であった母親が花束を渡したそうだ。後に、タゴールが、そのことを詩に書き留めたと奥方に説明を受けた。副島八十六は、日印協会の理事をし、大隈重信と開国50年誌を編纂した明治の偉人と呼ばれる人だ。数年前には、勝海舟や明治の文人や政治家などの直筆の手紙などを、国会図書館に寄贈している。

奥方は、国立図書館勤めだが、青木さんは輸入業を起こし、その時赤城の山小屋を手に入れ、男の子二人を山遊びさせたという子煩悩な人だ。数年前から、一人山に住まうようになって僕と知り合った。奥方も時には山に遊びに来、歓待し、饗宴を催しているが、青木さんの奥方が話し始めると「お前は、だまっていろ!」と青木さんの思わぬ面が現れる。電信柱とでもしゃべってろ!と言う。彼は、若いとき唯物論に染まり、「死ぬ前なら見舞いに行くが、葬式なんかには行ってもしようがない」という考えを持っている。その上、奥方には、亭主関白で、日に何度も電話を交わしてはいるが、自説を正論として、奥方にも子供たちにも口やかましく説得しようとするので、子供二人は、青木さんの電話を無視して、返事もかけてよこさない。奥方だけは、意に介さないように会話しているが、聴くところによると、ガチャンと切られることが多いと青木さんが言っている。それでも子供たちは、時々山の家を訪ねてくる。青木さんの愛情を子供たちは理解している。

青木さんは、唯物論者で、亭主関白で、恐妻家である。亭主関白と恐妻家は相性が悪いと思うが、本人は、恐妻家だと言い張るのでそういうことにしておこう。家族以外では、付き合いは見事に平らで、僕など、人格が5人も6人にも分かれるが、青木さんは変わらない。     

名前は重人と言う。しは、シャークスピア、げはゲーテ、とはトルストイと、文豪の頭文字から名前にしたそうだが、父上が、文人墨客だったのだろう。彼には、面白い癖があり、地震があると、緩い揺れの時は、愛犬ミゲールを連れて家を飛び出し、ひどい揺れの時は、愛犬をほっておいて逃げ出す。聞くところによると、青木さんのお姉さんも同じくせを持っていると言うので、両親のことを聞くと、父上が、関東大震災にあわれ、そのせいで地震恐怖が子供たちに伝わったようだ。僕の家でも、ちょっと揺れると、地震?と体が固まっている。

ひどく心配性で、愛情が深く、対人には気を使って付き合うが、家族には、言いたい放題だ。僕にもこのように、家族への言葉づかいと、その他の人への言葉が変わるが、長年の付き合いが現れるのだろう。

青木さんは、花の面倒も、弟の文哉の面倒もよく見てくれて、先日は、はなと文哉を映画に連れて行ってもらって、映画は何度か連れて行ってもらっているが、だいたい途中で居眠りをしているらしく、はなが、「わたし、3歳からおじいさんの面倒みてんだよ」と僕にこぼした。映画館の中では、居眠りしているとパンと肩をたたいたり、足を投げ出すと、膝頭をたたいて行儀よくするように注意している。

「え?面倒見てたのはおじいちゃんの方ではなくて、はなちゃんの方だったの」と、二人で顔を見合わせて、青木さんが「面倒見てもらえるのも、今年までですね」と僕に声をかけた。

 

明日から9月になる。いつもの短い夏が終わろうとする。テラスで煙草を吸ってクヌギに囲まれていると、7月ごろから、朝の4時半薄明りの中、日暮しの合唱が始まり、夕方5時過ぎから、つんざくほどの声で日暮しが鳴いている。このところは、朝も夕方もささやかな声しか聞こえない。そのうちみんな絶えてしまうだろう。山でも、それぞれの人が、生き、そして亡くなっていく。山にいるのは、老人がほとんどなので、遠くない時期にお迎えが来るだろう。それでも、毎日、毎日、動かしがたい自己執着で生きていくのだ。日暮しのようにカナカナ!ジージーカナカナと。

 

2017年8月4日金曜日

家族


家族

 

友人は、怒ったとき「ふざけんじゃーねー」と声が出るそうだ。

先日、間違って倉庫に閉じ込められた嫁さんが、戸をしめた祖母に「あやまれ!あやまれ!」と怒鳴り、動転した祖母が脳卒中で倒れて入院したと聞いた。

友人の「ふざけんじゃあねー」は、学生時代に覚えた可能性もあるが、父親に言われた言葉として使っているのだと思う。

「あやまれ!」は、父親か母親に、首根っこを押さえられたときに聞いた言葉ではないだろうか。

子供は自然に嘘を覚える。

本当のことを言えば、怒られるに決まっているから、嘘と見破られる言い訳をすることはよくあることだ。そのことに、あやまれ!と怒鳴ったのだろう。

悪いことをしてそのうえ嘘をつくとはどういうことだ!と親は、子供を正そうとしたのだろうが、長じて、カチンと来たときに使うほど脳裏に焼き付いている。

そのシーンが目の前に現れる。

畳に擦りつけられた子供の頬はゆがみ、乱れた髪の首元を、大きな親指と人差し指で押さえつけられている。

子供はそれでもあやまらない。親の手に力が入る。

宙を蹴る足、体をねじってもがくがどうにもならない。

押さえつけられたくやしさの涙をぬぐうこともできず、身動き出来なくされていることへの怒りの表情が著しくなる。

しかし、最後には、あやまらない子供に親は拳固で頭をはたくか、押し入れにいれとけ!とはきすてるように言ってあきらめるだろう。

子供は、数時間もすれば小さな声でごめんなさいとあやまる。このままでは、この家族の中生きていくのが大変になると解って謝るのだ。

虚弱体質の子は、大声で怒鳴られた瞬間にこころが萎縮し、どうすればいいかわからなくなる。エネルギーに満ちた子は、親をにらみつけ嘘を通そうとする。

「ふざけんじゃあねー」は、そう被害がでないだろうが、「あやまれ!」には悲痛な感情が潜んでいる。どこで間違ってこのようなことになったのだろうか。

 

うちでも騒ぎがあった。

アデノイドを腫らした花ちゃんが、お医者からもらったカプセルを飲み込めないで、「飲んだらのどにつまって死んじゃう。死んだっていいの!」と泣き叫んだ。ママがカプセルを割って粉を飲ませようとしても、「のどにひっついて飲めない!」と言う。カプセルはこんにゃくゼリーに詰めて飲ませようとしたのだから、いつもはかぷっと飲み込んでいても、カプセルの入ったゼリーはかさが増えて飲み込みづらいようだ。その後、粉にしても花ちゃんは怒りが収まらず、飲まないといいつのっている。

ママは「コンクールがあるんだから、熱が出たら出れないよ」と二日後のバレエのことを心配して飲ませようとする。

「それじゃあバレエは無理だね」と、横から祖母が言う。

うわーとあおむけの姿勢で泣きじゃくる。

「そんなことでどうするの。薬ぐらい簡単に飲まないでどうするの!」と本気になって祖母が怒り始める。花の左腕がつっているのか、けいれんしているように見える。

「それじゃあ、コンサートは出れないね」と花の神経にさわることを言う。

「わたしに、バレエをさせないとは、死ねということ!」と祖母に向かって花が言う。

「バレエができないと、私には死ぬことと同じだ」と続けて言う。

腕がつっているようなので、僕は花を抱きかかえ起こしてさすってやる。

小さな声で「言っているだけなんだから気にしないでね」「口が悪いのは知っているでしょ」と、耳元で言うが、まだ泣き止まない。

僕にはその場を押さえる能力がない。と言うか、何度もやり合ってけんかにしかならないので、口出しすることを押さえている。だから、花の腕をさすって、小声でなだめるしかない。

思い出すに、子供のころ、両親にどやされた覚えがない。言い合いをした経験もない。兄弟が5人いるので、不穏なことがあっただろうが口喧嘩をした記憶はない。

ひるがえって、家内の家では、感情をそのまま表す言葉づかいが普通のことだ。

経験が違いすぎる。言い合いをして勝てるわけがない。

花もママも家内の家庭での言葉づかいが普通になっている。

しかし、この場面で大切なことは、花に薬を飲んでもらうことだ。

粉にしてみたり、飲み込むことが出来るようにこんにゃくゼリーに入れたことも、薬を飲んでもらう為の行為だ。何も神経を逆なでしたり、感情を表すことではない。

最初は見ていないが、多分花はこんな大きなカプセル飲めないと言ったのだろう。ママは、それならこんにゃくゼリーは簡単に飲み込むのでそれに詰めたのだ。はからんや、容積が増えて花の口の奥でこんにゃくゼリーが詰まってしまった。花は怒りを表し「死んじゃう」と言ったのだろう。やり取りしている最中も、口の中につまってもぐもぐさせていた。

それを吐き出させて、粉の薬を出せば、落ち着いたときに飲んだだろう。実際に最後には粉の薬を飲んだのだから。

ただ、それが出来れば、こんな騒ぎにならなかった。

 

欧米の映画を見ていて思うに、家族間の言葉でけんかになることは日本も同じだが、彼らの言い合いは、言葉の本来の意味や内容での口喧嘩が多いと思う。日本では、言葉の意味ではなく、言葉を発する時の感情を感じて、意味で返すのではなく、同じく感情で返すことが多いように思える。

例えば、母親に向かって子供が「うるさい!」と怒鳴る場面。

母親は、こうしなさい、ああしなさいと子供に言うことを聞かせようとする。毎度のことなので子供は、聞き流している。子供が意図に反するので母親は、顔色を変えて大声を出す。その時子供が「うるさい!」と同じように大声で叫ぶ。

しなさいと言うことに、子供は理由を述べて説明することもあるだろうが、大声で怒鳴る親には、大声で返す。日本語で「うるさい」が「うるせえ」となり「うるせえんだよ」と言い始めると、親は「その口の利き方はなんだ!」と怒鳴ることになる。

要するに日本語では、意味を考えて対処するより、口の利き方が問題になることが多い。そして「親に向かって、その口の利き方はなんだ!」と親の権威を振りかざす。

その後その家は修羅場と化すだろう。

親が、注意しなければいけない場面はたびたびあるが、日本語で「頭ごなし」という言葉があるように、頭ごなしに注意するのではなく、相手の気持ちが解らなくても、尊重して話しかければ、問題は相当減少すると思う。怒るときはガツンと怒って引き伸ばさないことだろう。
良寛が、人の顔を見つめて話しをしてはいけない。人の顔色を見て話さなければならない、と戒語を記している。顔色を見るとは、相手の状態を観察して、ここでこの言葉は言わないほうがいいと判断するためだ。出てきた感情のままに話してはいけないということだ。

家族間の問題がなければ、人生の幸せの7.80%は達成すると言われている。

相手を自分の思い通りに動かそうとする感情を、日本人の文化的癖ととらえて見直すことなのだろう。

吉本隆明は、家族の問題を解くことは、政治や経済より困難な作業だと言う。

700億人のそれぞれの癖があり、それぞれの家族の文化が、それぞれ普通と思って過ごしている。他者を理解できないのは普通のことである。

爺さんが無口で怒りっぽいのは、常日頃、家族のそれぞれの癖に我慢を重ねて、ときどき堰が切れるのだ。爺さんは、話せば解るという子供の幻想は持っていない。ただ、修羅場を減らすには、我慢することだと、長年の経験からわかったのだ。

 

花は、まだ4年生だから反抗も微弱だが、中学、高校と大きくなってこのままだと、アルカイックスマイルの弥勒菩薩ではなく、仁王さんを秘めた子になってしまう。

3年生の時「おこりんぼうだから、奈良の仏さまを見て、私もやさしくなりたいの」と言うので奈良に行き、4年生でも、回りきれなかったお寺廻りを計画しているが、育ちの中でつちかわれた癖を、意志で克服することは苦難な作業となるだろう。
先日も、爺ちゃんが花のそばにくっつくと、「やめて!」と怒るので、もう少し引っ付いてみた。すると、仁王さんのような顔をするので、すごい顔と言うと「てめえのせいだよ!」とおどろく語彙が出てきた。男言葉も女言葉も、下品な言葉も、知っている年代だろうが、この言葉を使ってみたかったのだろう。爺ちゃんは大人の言葉は、ズキッとするが、子供たちの言葉には、なぜか平気でいられる。

弟の文哉がサッカーのコーチが「こうしろ、ああしろとうるさい」と愚痴をこぼした。この子は、エネルギーが充満していて、自尊感情も強く、婆ちゃんの言うことは素直に聞くのに、爺ちゃんの言うことにはすぐに反発する。サッカーで遊び、将棋を指し、虫取りし、爺ちゃんとダジャレ遊びをするので、同じ年代と勘違いしているはずだ。

子供たちは、小学生の間ぐらい遊びだけでいいように思っている。

夏休みに入って、花は、お婆ちゃんのやっていることみんなやってみたいと言い出した。包丁を使い、洗い物をし、洗濯を手伝い、掃除をし始めた。
今日の夕飯は何?と問うも「お楽しみ」と教えてくれない。これは、お婆ちゃんには、何ごとにも代えがたい幸せなことだと思う。買い物もレッスンにも、婆ちゃんの金魚のフンのように付きまとっているが、花は顔色が見えて、慎みがあるから、婆ちゃんの邪魔になるようなことは、言わないし、しない子と思う。

爺ちゃんの今までの楽しみが、婆ちゃんのところへ行ってしまった。じいちゃんは、ついに花に相手にされなくなってしまった。